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人間は遊びが好きである。子どもの時にはごっこ遊びをしたりテレビゲームをしたりして日常の大半を過ごす。大人になってもスポーツをしたり、賭け事をしたりする。遊びは人生の中で欠かせないものであり、生活に潤いをもたらす。
このように生活に密着した遊びであるが、いざ遊びとは何かと問われるととたんに言葉に窮する。遊びほど実践と思考に断絶のある活動は無いのではなかろうか。 本書『遊びと人間』は遊びの本質を追究した哲学書である。
まず、カイヨワは遊びの基本的な定義を以下の通り記述している。
- 自由な活動。すなわち、遊戯が強制されないこと。むしろ強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
- 隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
- 未確定な活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の工夫があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
- 非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
- 規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
- 虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。
(『遊びと人間』p.40より)
カイヨワは以上の定義から逸脱した遊びは「堕落した遊び」であり、本来的な遊びではないと否定する。例えば、体育の授業で行われるスポーツもパチプロも彼らの考えからすれば逸脱した遊びであり、批判されるべきものだろう。体育の授業は強制されたものであるから「自由な活動」ではなく、パチプロはパチンコをすることで生計を立てているので「非生産的活動」から外れるからである。
カイヨワは以上のように遊びを定義したが、これだけでは遊びの内容を説明することはできないと考えた。 まさに自分が遊びをする最中に感じる「楽しさ」を端的に言い表すには、どういう定義を行えばいいのか。
カイヨワは遊びの「パイディア(Pidia)」と「ルドゥス(Ludus)」という用語を発明することで遊びの本質を言い表した。
カイヨワはこのパイディアとルドゥスという2つの力を極として位置付けられた活動が遊びであるとした。つまり、遊びとは自由奔放でありながら何か見えない規則に縛られている、一見矛盾した行動であるとカイヨワは位置付けたのである。
遊びが2つの力の極に引っ張られたものであるということは、遊びにもパイディア寄りのものとルドゥス寄りのものがあり、そこには濃淡があるということである。 カイヨワは遊びの内容にしたがって、遊びを以下の4つに区分した。
すべて競争という形のとる一群の遊び(p.46)。
遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成りたつすべての遊び(p.50)
その人格を一時的に忘れ、偽装し、捨て去り、別の人格をよそおう遊び(p.55)
眩暈の追求にもとづくもろもろの遊び(p.60)
「パイディア』と「ルドゥス」という2つの極。そして上の4分類を用いると様々な遊びを分類することができる。試みに、具体例を上げながら表形式で遊びを分類すると以下のようになる。
- | パイディア | ルドゥス |
---|---|---|
アゴン | けんか | サッカー、野球 |
アレア | (存在しない) | パチンコ |
ミミクリ | ごっこ遊び、演劇 | 組み立て遊び |
イリンクス | サーカス | (存在しない) |
このように分類してみると、それぞれの遊びが内在する規範や楽しさの秘密が分かるだろう。
カイヨワの遊び理論の面白いところは、以上の遊びの定義と分類を使って社会を支配する力を解き明かそうとする点である。
カイヨワによれば、人類の歴史は「ミミクリとイリンクスの時代」と「アゴンとアレアの時代」の2つの時代に分けることができるという。 ミミクリとイリンクスの時代とは、つまり呪術や幻覚が支配する時代である。社会の支配者は仮面をつけたり(=ミミクリ)、薬草などによって錯乱したり(=イリンクス)することで神や精霊の代行者となり社会をコントロールしようとする。日本で言えば卑弥呼の時代などを思い浮かべられる。 人類はこのような呪術と幻覚に支配された文明から、徐々に法律による規制や市場での競争を通じて社会をつくりあげようとする。 つまり、ミミクリとイリンクスの時代からアゴンとアレアの支配する社会へと人類は移行するのである。
しかしながら、ミミクリとイリンクスは人類社会から消失したわけではない。 ミミクリは演劇という形で、イリンクスはサーカスといった形で生き残っている。 ときにこうした遊びは反社会的な行動へと変化する。 そして、社会の片隅で人間を魅惑し、再び社会を支配しようとしている。 その転覆が成功したとき、それは革命といった形で社会に現れるのである。
このように、カイヨワは遊びの分析を出発点として人類文化を研究することができると考えた。 このため、『遊びと人間』は遊びだけではなく人類のあらゆる物事を考える汎用的な方法論として使えるのである。
名著とは、読者の現実の捉え方を転換させるような本だと思う。 そうだとすれば、本書は間違いなく名著といえるだろう。 ぜひ読んでみていただきたい。
名前:常川真央
筑波大学図書館情報学メディア研究科で図書館情報学を学ぶ。2014年4月より専門図書館員としてとある研究所に勤務。RubyとJavaScript使い。短歌の鑑賞と作歌が趣味です。
業績 : http://researchmap.jp/kunimiya
連絡先: tkunimiya@gmail.com
Twitter: @kunimiya