|

最近、平野啓一郎の『私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』を読んで面白かったので過去に読んだことのある『ウェブ人間論(新潮新書)』を読み返している。『ウェブ人間論』は梅田望夫と平野啓一郎の対談であり、主にブログ というメディアによって人はどう変わるかということを述べている。平野自身が『私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)』でも述べている通り、平野は小説を書きながら分人論を少しづつ構築してきた。なので、2006年に出版された『ウェブ人間論(新潮新書)』でも、分人論の片鱗が見て取れる。

『ウェブ人間論』を今回改めて読んでみて気がついたのは、梅田と平野のスタンスの違いである。当時読んでいたときは、梅田は理系出身ウェブに楽観的な人間であり、一方の平野は文系出身でウェブに悲観的な人間という対立でとらえていた。しかし、両者の違いの本質は「個人主義」対「分人主義」という捉え方でみたほうがいいのではないかと今では思う。

平野の提唱する分人主義は、対人関係ごとに作り出されたコミュニケーションパターン(=分人)こそ自己の本質の一部であり、対人関係を切り離しても成立する「本当の私」は存在しないとする見方である。それゆえ、平野は自己形成を語るうえでコミュニケーションを非常に重視する。『ウェブ人間論』の時点でもその姿勢は現れており、例えば平野は個人ブログについてこう語る。

「「(……)コミュニケーション型じゃない、独り語り型のブログって、他者の存在を切断した、真空状態で紡ぎ出される言葉でしょう?リアル世界では、他者の思惑に翻弄され、自分の言いたいことがうまく言えない、あるいは場の雰囲気で喋らされているようなところがある、だから、独りになったときに吐き出す言葉こそが本当の自分なんだっていうのは、分かるんですけど、正しくないと思うんです、やっぱり。ある人がどんな人かっていうのは、結局、他者とのコミュニケーションの中でどういう言動が出来るかということにかかっている。誰もいない場所であれば、どんなことでも言えるけれど、そういう人間は、ネット上で一見言葉によって実在しているように見えて、本当はどこにも存在してないんでしょう。」

『ウェブ人間論』p.164

独り語り型のブログの典型である本ブログの筆者からするとグサリとくる表現だが、それはともかくとして平野はこの時点で分人主義的思想を持っており、コミュニケーションが無いブログについて否定的な反応を示している。これに対して梅田はあまり明確な答えは出しておらず、特筆するところはないのでここでは省略する。

一方の梅田は、特にコミュニケーションを否定しているわけではないので平野と対立しているようには見えない。しかし、梅田の著作をみると、彼の考え方が個人主義にもとづいていることがわかる。彼は著作のなかで頻繁に「サバイブ」という表現を使う。競争相手の多いシリコンヴァレーで暮らしてきた経験に基づくのでそうおかしなことではないのだが、一方で「協力」とか「信頼」といったワードはほとんど使わない。『ウェブ進化論』を読むと、彼はウェブの創造性を語るうえで「個」と「全体」という関係性で説明しており、常に単位は「個」である。梅田にとってウェブでの理想的な形は「個」同士は対話せず、各々が独自に知的生産し、それをグーグルという「全体」がまとめ上げる。これは結局、人々をシステムの構成要素としてみる社会システム論の言い直しである。だからこそ、梅田は楽観的に「あちら側」を信頼しているのである。なぜなら、社会システム論的な観点では、システムの幸福と個々人の幸福は一致するからである。平野はこうしたシステム論について言及はしないが、梅田の思考からふるい落としている人間関係が生み出すものの重要性を『ウェブ人間論』で一貫して突き続けている。

梅田望夫は、本書の後に「日本のウェブは残念」という発言をして物議をかもした。彼の期待と現実に大きなギャップが生じたのは、もしかしたら平野がさり気なく指摘していた「個」を基調として人間関係を捨象するウェブ社会の見方だったのかもしれない。

トラックバック