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民族という虚構

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  • 出版日:
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • カテゴリ: Book
  • ISBN: 4130100890

先日、熊本・大分を中心として大規模な地震が起こった。早期から報道は現地の被害状況を伝えていた。潰れた民家、野外の避難場所で毛布に包まる人々、石垣が崩れた熊本城、崩落した阿蘇大橋。悲惨な状況にテレビから目を話すことができない。このような光景を目にして多くの人は震災の被害に遭った人々の哀しみに共感する自分がいる。

しかし、と私は自分の感情に疑念を抱く。もしこれが遠い海外の地での地震だとしたらどうか。これほどテレビに釘付けになることも、共感を抱くことも無いのではないか。例えば、ネパールで震災が起こったからといって日本国内の報道や興行の自粛を検討することはあるだろうか。

震災に限らず悲劇は世界中で常に起こっている。にも関わらず人々は限られた悲劇、特に日本国内の悲劇や日本人が関係する悲劇だけに反応する。要するに、何か大規模な出来事が起こった時に私たちがとる反応は何らかの共同体意識の影響を受けているのである。それでは、その共同体意識はどのようにして出来上がるのか。どうして私たちは、行ったこともない場所の出来事に対して、それが国内というだけで我が事のように感じるのか。

もしその共同体意識がポジティブな方向に作用するのであれば、特に疑念を感じることはないだろう。しかし、時に民族意識による団結は排外を招くこともある。たとえば関東大震災のときは、「朝鮮人が井戸に毒を流した」というありもしない噂が広まることによって虐殺が引き起こされた。同じ被災者であるにもかかわらず、民族や国籍の違いで亀裂が走る。今ではさすがにそのような自体は簡単には起こらないだろうか、それでも不安な気持ちにさせる。もしかしたら私の感動が、私を間違った行動に走らせてしまうのではなかろうか。はたして、私の胸に湧き上がるリアリティを、私はそのまま受け入れて良いものだろうか。

3.11以降、急速に重要視された「絆」の向き合い方に私は今も戸惑っている。そのような人は、他にも大勢いるのではないだろうか。

本書『民族という虚構』は、民族などの集団的なアイデンティティがいかにして出来上がり、自明のものとして人々が受け入れるようになるのか、そのメカニズムを解き明かす著作である。民族について研究する時、歴史などの事実関係に着目するアプローチが素人的には考えられるが、本書では認識論の観点から民族について考察している。要するに、人は何を見て民族なるものを想像するのか、ある集団を民族として認め、伝統があると認識する要件は何か。それをディビッド・ヒュームから現代の脳科学まで幅広い学術研究を総合して検討する。

本書で主張していることを端的に言えば、民族をはじめとした集団的なアイデンティティは真正であることはありえず、常に虚構で成り立っているということである。これだけでは、著者は民族や集団を嫌う極端なコスモポリタンのように感じるかもしれない。しかし、著者の意図はむしろ逆である。著者は、そもそも社会も、個人の意識でさえも、虚構を抜きにしては成立し得ない。さらに言えば、現実と虚構は対立的なものではなく、むしろ相補的な関係にある。つまり、現実はウソで成り立っているのだと言う。

本書は民族の虚構、文化の虚構、個人の虚構、社会の虚構を次々と暴き、ついには現実の虚構性を解明したうえで、虚構の重要性を説く。人々の間で共有された虚構が排外主義を引き起こすのではなく、たとえ異なる民族に所属しようと助け合いができる、開かれた共同社会はいかに構築可能かを模索する。

本書は民族問題だけではなく、インターネットの発達によってたちまちのうちに情報が共有され、かつて区別されていた「バーチャル」と「リアル」の境目がなくなった現代社会のあらゆる事象を考えるうえで重要であろう。

最後に、震災の被害に遭った友人に、いち早くもとの現実に戻れるよう祈っている。ひとりひとりへの絆については、私はまだ信じられている。

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