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「自分探し」の旅は、しばしば馬鹿にされがちだ。自分は常にそこにあるはずなのに、なぜ旅に出なければならないのか。人はそれを滑稽だと言って笑う。しかし私は、別にそれが変なことだとは思わない。むしろ、正常な行動なのではないかとさえ思う。以下、そう思う理由を、自分なりに説明してみようと思う。

人が「わたし」を初めて認識するのは、鏡の前に座った時である。そのとき人は自己に肉体という境界があることに気づき、世界から切り離されて「わたし」になる。鏡という存在があってこそ、自我の形成が可能になる。

わたしを形成するための鏡は、物理的に光を反射するものに限らない。人と出会い、話をするとき、人は話し相手の反応を見ることで自己がどう見られているのかを知る。すなわち、他者もまた鏡の一種なのである。人は人生の中で絶えず鏡を見ていて、そこに映る自分の姿を見て自己イメージを修正していく。

ただし、1人の他者が映すのはあくまでも自分の一側面に過ぎないということである。ある人は職業、出身地、趣味、国籍、宗教、性など様々なアイデンティティの組み合わせで自己イメージを作り出している。しかし他者はその中の幾つかにしか着目しない。ある人は「趣味が同じ人」として話し、ある人は「職業が同じ人」として話す。または異性として話すこともある。その他のアイデンティティについては、関心がないので反応しないか認識しない。そこで、人は平生1人の他者に頼るのではなく、多様な人と出会うことによって複雑な自己イメージを偏りなく修正しようとする。

ここで、多様な人々と出会えないとどうなるのだろうか。例えば同一の職業でつながるコミュニティに依存した生活を送っているとき、そこにいる他者は職業という側面でのみその人を見るので、職業人としての「わたし」は確認できる。しかし、それ以外の側面の「わたし」を確認することはできない。これは首から上しか見せないでその他の身体は全く写さない鏡を見るようなものである。首以外の身体の状況を確認できないので、人は「もしかしたら身体の一部が欠損しているのではないか?」と不安に襲われる。このように多様な他者と出会えないことは、アイデンティティの崩壊をもたらす原因となる。

改めて「自分探しの旅」とは何かを考えてみよう。人は自我を1人だけで認識することはできない。そして、多様な他者と出会えない社会では、自己の多様性を写すことのできないので、人はアイデンティティ崩壊の不安を抱くようになる。この不安を解消するためには、まだ出会ったことのない人に出会いに行くしかない。そして全体としての「わたし」を取り戻さなくてはならない。自分探しとは、自己イメージを健全に形成できる環境を物理的な移動によって再構築すること。これが自分探しの旅の本当の意味である。

それでは、不安に駆られた人が自分探しをしないとどうなるか。そういう人は首から上の自己像をみて、自分は首だけしかない存在だと思い込むことと同じだ。すなわち、自己イメージの矮小化がはじまる。自己イメージの矮小化は、当人にとって有害なだけではなく、社会にとって極めて危険だ。なぜならばその時、人はたった1つのアイデンティティしか持たないことになる。それが損なわれれば死んだも同然である。結果として、矮小化された人は扇動者の口上に乗って狂信的行動に駆られる。虐殺やテロへと動員されやすいのである。

自分探しの旅が表しているのは、旅をする人の愚かさではない。その人が暮らす環境の硬直性である。自分探しの旅に出る人をみて起こすべき反応は、嘲笑うことよりも、自分たちの暮らす社会がいつの間にか人間を拒否する社会になっていないか反省することであるだろう。

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